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「発達障害当事者」が社会の多数派となる社会、その実践的事例

発達障害を一緒に語る会 世話人 / 居場所カフェ「コモリナ」 代表  山本 純一郎

​気づけば「発達障害」が自分自身のアイデンティティになっていた

 

 私が発達障害を自覚しはじめた20代後半の時期は、仕事面では同年代の「同輩」に当たる人達が自分の仕事をこなしつつ、後輩の面倒を見始めるようになる時期ではないかと思います。それに引き換え、自分自身の仕事すら覚束なく、上司に激しく叱責されながら、ひっそりと後輩に助けられる己の姿。当時は、生きているだけで情けなくなっていました。私自身は不登校もほとんどなかったのですが、「なんとなく通っていただけ」のような学生時代においては、それでも遅ればせながら、高校時代までは「いじめられそうだから関わらない」ようにしていたような人達とも、大学時代までには「イジられてでも仲間から愛される」ような術を学び、仕事が絡まない程度の人間関係であれば、なんとか上手くいくようになっていました。しまいには後輩からもイジられて、周囲の人間が心配するぐらいになっていましたが、「これが私のスタイルだ」と、他人に感化されやすい割には、頑なにこだわっていた付き合い方をしていました。

 どうしても仕事が絡むと悪化してしまう人間関係に悩みながら、仕事からも家からも逃避して、仕事以外の、例えばインターネットで知り合った趣味の会の仲間と遊び回り、現実逃避の日々…これが30代半ば過ぎぐらいまでの私自身のライフスタイルであったように思います。仕事以外の活動の仲間とは、ほどほどには認められるが、仕事以上に打ち込み過ぎる割にはなかなか自分という存在を「わかってもらえない」実感の湧かない日々が続きました。新しく知り合った仲間達に置いて行かれるのが怖かったのかもしれなかったのです。そして一人でいる時間のほとんどをパチンコ屋で過ごす…こんなもう一つの自分の姿がありました。発達障害の診断も既に受けていましたが、まだまだ見捨てられたくないので、なかなか周囲には言える状況でもありませんでした。そんな日々を過ごしていたが、ある日私を見捨てるどころか、都合の良い時だけ自分自身をしつこく留め置きたがる周囲の存在に怖気づき、自分自身がもう「逃げるしかない」状況を初めて経験したのが、37歳当時の自分でした(現在私は50歳です)。

 ところが逃げた先の私は孤立するどころか、私自身を留め置こうとしていた人はわずかに少数で、大方の仲間達は私の置かれた立場を理解して、私に共感してもらえました。この頃ようやく、自分自身の特性を周囲に「発達障害」と告げても、人としての理解さえあれば、絶対に見捨てられることもなければ、それを理由にしつこく留め置かれたり、一方的に利用されたりすることもないだろうと気づいたのです。仕事で成長する機会がほとんど見当たらず、満たされない気持ちからひたすら浪費し、今となっては貴重とも思える底付き体験をしました。もはや失うモノはもう何もない。失うことを恐れるより、大事な居場所や仲間や仕事やつながりは、ただ一方的に相手に認められようとするだけではなく、自分自身で時間を掛けてでもじっくりとみつけて育ててくことにしよう。そんな心境が今も実感として続いています。

徐々に周囲が発達障害の「当事者が多数派」になっていた

 未だに一人暮らしでまともに部屋が片付いていた試しがない。物をよく失くす、壊すなど、生活面での生きづらさが強調されるとAD/HD(注意欠如・多動性障害)と診断されやすいし、仕事面では、段取りができない、協力して仕事をやりにくい、得手不得手の仕事の極端さがある等からアスペルガー症候群の診断がされやすい私は、いわばハイブリッドな特性を持っているのではないかと思っています。その他の私自身の特性としては、思春期から運動チックと音声チックが顕在化し、今では目立たないものの地味に健在なのです。いわば「トゥレット障害」の当事者でもあると言えそうです。苦手な人を前にすると今でも黙りこんでしまう局面があるので、もしかしたら場面緘黙症も若干あるかもしれない。一時期ギャンブルにのめり込むなど、依存症的気質が激しく現れることもあります。仕事中にチャット中毒のようになり、職場では私のPCだけインターネットを遮断されることもありました。仕事ではひたすら鬱っぽいのに、遊びに行くとすっかり現実逃避している様は、新型うつ病とも診断されかねないな、とも思いました。30歳を過ぎる頃までは、自分はいわゆる世間一般の「普通」という基準以下の存在で、自己肯定感がとても低かったように思う。しかしこの特性が幸いしてか、発達障害の当事者として自助グループに関わるようになってからは、まさしく当事者のグループに関わっている時が一番「どうしてこんなに居心地が良いんだろう」という実感を持つに至るようになっていたのです。なぜならAD/HDの気持ちも、アスペルガーの気持ちも、さらにはいろいろと隣接する様々な症状への共感を得られるネタが豊富だと感じられたからではないかと私は思います。言い換えれば「ダメ」でも良い心地よさ、ではないでしょうか。

 2005年に初めて発達障害の診断を得られてからも一人でしばらく悩み続け、初めて「他の発達障害の人」と実際に話す機会を得られたのが、2007年に参加したmixi(ミクシィ)というSNS上で開催されていた、当事者主催によるオフ会でした。居心地の良さから瞬く間にはまり込み、私も主催を持ち回りで担当するまでになっていた。その頃はオフ会だけが当事者との唯一の接点だったが、当時たまたま出会った無料通話ソフトのSkype(スカイプ)による全国規模のグループチャットにはまり、全国各地で開催される、当事者によるオフ会だけでなく、当事者によるセミナーや、NPOとして組織された当事者会や自助会、親の会や自閉症協会が主催するもの、12のステップに代表される依存症の自助グループなどなど、様々な形で当事者による会が開催されていることを知りますます活発に参加するようになっていました。折しも、2008年に発生したリーマン・ショックによって、私自身が無業状態に陥っていたにもかかわらず、逆に私自身は関西の当事者グループにまで遠征するなど、仕事以上に熱中していた自分がそこに居たのです。傍から見るとすっかりダメな人間にしか見られないかも知れない。しかし何かに取り憑かれたような自分自身が好きになりそうな感覚が何とも不思議でした。そのうち一生の付き合いになれそうな人達がだんだんと集ってきて、最初は誰かの冗談から始まった「発達障害当事者だけで暮らすシェアハウス」がスタートしたのが、2009年のことでした。

発達シェアハウスは「当事者界のトキワ荘」?

 

 シェアハウスの構想がスタートし、気づけば私のハンドルネームをもじって「にゃんまげハウス」と呼ばれる程にもなっていた様でしたが、そもそものきっかけは、たまたま私の自宅の近所で開催されていたオフ会の、私が主催者でも何でもない会のその主催者である当事者が、勝手に私の自宅を二次会の会場に指定したのが始まりでした。
 シェアハウスの家探しがスタートしたところで、実は私はこのメンバー3名(男性2名、女性1名)で住むことにはまだまだ乗り気ではなかったのです。物件探しも行き詰まっていたころ、どうしても私が住む借家のツテがないと借りられない物件があるとのことで、仕方なく私名義でないと借りられないという事情があったので、気乗りしないまま物件を下見すると、これがまた駅近で広々とした静かな物件が見つかり、直感的にこの物件に決めたのです。
 こうして3人での共同生活がスタートした。基本的には、月イチで当時、私が近所の公民館で主催していた「発達障害を一緒に語る会(以下、語る会)」という名の当事者会が終了した後で、皆でシェアハウスに集い、朝まで飲み明かすということをしていました。駅から至近なのに広々としていたので、多い時は20人以上居ても収容できる程の広さでした。情けない話ですが、住人全員が部屋の片付けができず、荒れ放題なのを、毎回それを見かねた片付けの得意な参加者が居て、片付けを助けてもらうという図式が出来上がっていました。幸か不幸か、常に1人は無職あるいは在宅勤務(山本註:いわゆる自宅警備員というヤツです…)で誰かが常駐できる体制ができていたので、何とか不意の来客にも対応できていたのは幸いでした。気づけば私も2010年にはここの住人でありながら、突然舞い込んできた、「発達障害の当事者が立ち上げたNPOで、1年限定での、約10名という大量採用の」緊急雇用創出事業に私が採用されるという幸運に恵まれたのです。しかし大阪での雇用だという。ここで私は「毎月1回、東京のシェアハウス」に戻りながら「語る会」を主催するというめまぐるしい日々を過ごし、大阪では、このNPOに勤めながら、私の祖母が住む父の実家に居候し、祖母、父、私という、親子3代にわたる共同生活を、方や都内では私が最年長という共同生活と並行させることとなったのです。余談だが、のちに自称「定型発達者」の同居人が私と入れ違いで入居することになるのですが、部屋や流し台の整頓が得意だった彼が、周囲の多数派(の発達障害当事者)に沿ってだんだんと片付けをしなくなるという実験結果(?)も得られたのです。

 東京、大阪どちらのシェアハウスも交通至便で実に便利な拠点でした。北は北海道や岩手、南は広島や熊本でこれから自助グループを始めようとする、アクティブで志の高い当事者たちがここを訪れては、東京や大阪の当事者たちと夜な夜な激論を交わす姿からは、以前にも増して地域間の交流を重視した、新世代の当事者グループの誕生の息吹を肌で感じることができました。まさしくこれらシェアハウスで起きていた事は、後に当事者界の「トキワ荘」のような伝説を生み出していたのではないかと、勝手に私が感じるところでもあります。残念ながら、東京のシェアハウスは各々の経済的事情でクローズし、大阪の家も、祖母の死去により現在はなくなっています。時には厳しい事を言うものの、基本的に私の長所だけを見て褒め続けてくれた祖母は今でも私の人格形成に少なくない役目を果たしていたのではないかと今でも思います。

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発達シェアハウスの様子(絵:大橋ケン)

それでも私が常設の居場所にこだわる理由

 

 2007年に私が引き継いだ発達障害mixiオフ会に端を発する「発達障害を一緒に語る会」は今でも基本的には毎月開催しています。間に長い休止を挟むこともありましたが、その期間のあいだ、私は都内のとある発達障害当事者の常設の居場所にどっぷり関わっていた時期だったように思います。あまりにどっぷりと関わりすぎた反動で、「ここは私を含む少数のための居場所になってはしないか、それ以外の人を知らずのうちに排除していないだろうか」と考えるようになっていました。誤解のないように言いたいのですが、このことが事実だったといいたいわけではなく、今にして思えば、私自身が主観的にそういう気持ちに陥っていて、気持ちが保てない状況に追い込まれていたのではないかと思います。

 そんなことがありつつも、今なお常設の居場所にこだわる理由。それは、東京大学先端科学技術センターの熊谷晋一郎先生の言葉を借りれば「自立は、依存先を増やすこと。希望は、絶望を分かち合うこと。」とおっしゃる通り、居場所の選択肢はできるだけたくさんある必要があると思うからです。ここ近年では地域での活動にこだわり、私のホームタウンの世田谷区で、ひきこもり当事者の人たちと組んだひきこもり支援の活動につながることができ、区内でひきこもり支援に理解のある空き家のオーナーさんと出会うことができました。それが縁で今年から、ひきこもりや発達障害を含む生きづらさを抱える人たちのための「居場所カフェ コモリナ」という居場所をオープンすることができました。まだまだ手探りでの運営で、仲間は全員、私も含む当事者によるボランティアでの運営となりますが、今後は金銭的、人的なものを含め、あたたかい支援をぜひ賜りたいと思います。

 発達障害を一緒に語る会 http://setahattatsu.wp.xdomain.jp/katarukai

 居場所カフェ コモリナ https://komorina.jimdofree.com/

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