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責任

 

責任(せきにん、英: responsibility)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。 何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。(ウィキペディアより)

 

「(自分の行ったこと、または行わなかったことにより)何かが起きたとき、自分で応答し、対処する義務を負うこと」が責任です。まず、(難しいですが、)人のせいにするのはやめたいものです。相手の求める責任の取り方に従うことも反論することも、違う提案をすることも、自分の責任で行うことができます。「責任を取った気になる」ことも、単なる自己完結に過ぎない場合が多いのではないかと思われます。

 

*以下、Wikipedia「責任」を参考にしています。

 

責任という言葉の第一印象はあまりよいものではない場合が多いのではないか。

「お前の責任だ」「責任者出てこい」「どう責任を取る気なんだ」

…他人を責める(他人から責められる)際に使われるからだろうか。

周囲(主に日本国内)で使われている責任という言葉の実際はともかく、

ここでは定義を見直すことが大切である。

 

「何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務のこと」

…「何か」とは、ある人の行為(行わなかった事を含む)

(自分で選択できなかった行為を含まない)が原因であると考えられる事である。

…「応答、対処」とは、原則的に他人から指示された方法を直接的に意味しない。

例えば、「私はあなたに謝ることができません、なぜならば…」

と説明することも応答の形の一つである。

 

責任とは日常的に使用・思考しているより主体的な概念である。

 

自由と責任――「権限」と「責任」が同時に考えられる元には「自由」と「責任」の

関係性があるのではないか。

責任は自由があるからこそ存在する。責任のない自由はない。

少し強調した言い方になるが、自分の意志で決め行えること、自分の意志で選択して

行えること等がここでの自由である。

責任を取るだけの人はいてはならない。例えば、

「人事権(権限)があるのなら、人事が失敗だった場合辞職という形の責任を負う」

というのは分かりやすいが、権限はその人が自分の自由意志で選択して得たものか。

また、責任の取り方は辞職と誰が決めたのか、その人は納得しているのか。

〈権利・権限と責任〉がセットなのではなく、〈自由と責任〉

が切り離せない概念なのである。

 

自由と責任は不可分であり、単体では存在し得ない。

 

誰かに対し、「責任を取るべきだ」と感じた時、その人に自由があったかどうか、一度考えてほしい。(また、自分の思う責任の取り方がなされるべきとまで考える必要はない。)

例)Aさんは会議中に席を立つことが多く、会議の決定事項を理解できず、プロジェクトに参加できなかった。Aさんの分までプロジェクトの仕事をしなくてはならなくなったBさんは、「Aさんは責任感がない」と感じた。課長のCさんは、Aさん・Bさんとは別のプロジェクトチームに参加することになったが、「Aさんは自分勝手だ」と感じていた。

ー持病の薬の副作用で喉の渇きがひどく、飲食禁止の会議室から抜けざるを得なかった・胃痛が激しく手洗いに立つことや服薬が必要だった、などの理由があったとしたら

ーその理由はBさんの納得できるものである必要があるか

ーAさんに理由があれば、Bさんの不満は抑圧されるべきか

ーBさんは誰に自分の意見を伝えるべきか(伝えざるべきか)

ーCさんから「Aさんは自分勝手」という風評が社内に広まったとしたら

 

・会議中に室外に出ない、携帯を見ない、眠らない、服装を正す、発言は指名の後・・・などのルールは全員の同意の元に明確化されているか?

⇒(暗黙の)ルールが各々の自由を制限していなかったか

・ルールはなぜ守るべきなのか全員が理解・納得できているか

・ルールを守らないことで生じることの責任を全て負うならば、何をしても良いのか?

 

常に責任を意識するところに自身の自由があるだろうか。しかし、「応答・対処

できる、常に応答できる状態にある」という意識は、確かに必要である。

無責任に行われる事は本当に自身の自由な意志・選択による行為か?

社会と必然的に関わらざるを得ない私たちは自問する必要があるのではないか。

(社会とは対人間に限定されない。生物も無生物も全て人間社会に接点がある。それ

らは介在物として人間社会に関わる。)

 

責任は他者から負わされるものではなく、自分から負うものである。

 

自身の行為を他者から強制されたものであると主張して、責任を免れることを視野に

入れた行為は、既に無責任とも言えるのではないか。

自分の自由が存外大きいものであることを自覚し、「皆が『私がした方がいい』と思っているからしたのに」「あの人が私にしろって言ったからしたのに」…を言い訳に

できると思うことのないよう(無意識にそうなる傾向を持つ場合もある)、断る・選択する・代替案を講じる等のわざを身に付けたい。

 

 

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